今日は、山の町へお参りに行きました。
町の中を世話方につれられて、6軒次々とお参りするのです。

4軒目のお宅でお内仏に向かってお経をあげようとしていると
おばあちゃんがつぶやくように言うには
「生き仏さんに来てもらってお参りするからね」
???俺の事か???
読経中「生きた心地がしませんでした」
山のおじいちゃん、おばあちゃんは信仰が深いという印象がありますが。
それはその通りなのです。
しかし、「生き仏」的発言をする信仰は初めて生で聞いたのです。
お勤めの後におばちゃんが
「やや!やっぱりこの人は生き仏じゃない〜 ひっ捕らえよ〜」
と自分の正体を暴かれるんじゃないかと、普段よりお経に力が入っちゃいました。

昔話として語られた逸話に、本山の門主がある土地を訪れて、ある家に滞在した。
そのお宅でお風呂をよばれたのだが、門主が入浴したお風呂の水を「ありがたい」
「功徳がある」といって飲んだ!という話を思い出しながらお経を続けていました。

誤解で崇拝されるということは、そのぶり返しが怖いという事でもあります。

 普通にお勤めは終わり(当たり前ですが)次のお宅にお参りに行くと、そのおばあちゃんがついて来ておいでで(町によっては両隣のお宅のお参りも一緒にする習慣がある)そのお宅でも読経を始めようとしたら「生き仏さんに来てもらってお参りするからね」とやはり同じ言葉を。

ヒヒ〜ン!\(@o@)/

私にいわれているという事を確信して、思わず「プッ」と吹き出してしまったら。
そのおばあちゃんも「ふふっ」と吹き出したではありませんか。
安心しました。
おばあちゃんは、坊さんとしては若い私をちょっぴりビックリさせようとして、言われたようです。しかし、そのあと「ありがと〜 なんまんだ〜」と吹き出した自分を打ち消そうとするように独白されました。

「ありがとう」

これは浄土真宗特有の祈りの言葉です。仏様に頼み事をする祈り(または頼み事がかなった時の)ではなく、現在ここにある自分の命の尊さに気づき、今に自足している者の感謝の祈りが「南無阿弥陀仏」の教えなのです。

こうなってくると「生き仏さんに来てもらってお参りするからね」という言葉も単に私をからかったのとは違う意味がこもっています。
わたしに対して「あなたは生きた仏教に出会ってますか?」と問っている言葉だったのかも知れません。

坊主である私は、いつもおまいりの方々に背を向けてお勤めをしていますが、背後から聞こえてくる、おばあちゃんのお念仏の声や、つぶやきに育てられているのですね。

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