小松の向本折の墓地で門徒さんと待ち合わせて、読経を始める。
子供たちはほとんど大人しくしている事はなくて、お参り中にお墓の通路を走り回ったりしている。
走り回るのはまだ良いとして、隣の墓に敷き詰められている玉砂利をすくって隣のお墓に移動させたりすると、さすがに親も見過ごす事は出来ず子供を引き寄せたりしている。
子供はイヤイヤしてすり抜けてすぐ同じ事をし始める。
そんな子供を横目に見ていると私の方も昔の思い出がよみがえってハラハラする。
実家のお寺には墓地が隣接してあり、そこは格好の遊び場になっていた。ある夏休み、幼なじみのしげる君とかくれんぼをして遊んでいる時。お墓に隠れた私は大きなお墓の石灯籠の陰に隠れようとして、その石灯籠を乗り越えてお墓との隙間に入ろうとした。
すると、ちょうど石灯籠を乗り越えようと足をかけたとたんにグラグラと揺れた。
マズい!
石灯籠もろともバランスを崩し倒れてしまった。子供にとっては大変大きな石灯籠が私の上に乗る形で。すこしも身動き出来なくなった。私は仰向けに空をあおぐ形で灯籠は私の上にしっかり乗っている。しかもお墓の隙間に閉じ込められる形になっているので、左右に体を動かすことも出来ない。すこしでも動こうとすると、右のあばらに重みが食い込んで痛い。
ohaka
かくれんぼ的にはバッチリ隠れていることになる。命がけのかくれんぼになって来た。
すぐに、呼吸をすることさえ辛くなる。大きな声も出せない状態になる。
「しげる君!たすけて?」と言えない。
かくれんぼをして、こんなに「早く見つけてほしい」と心の底から思った事は後にも先にもこの時だけだ。
しばらくしてしげる君が見つけてくれた!
「しゅうちゃん、どしたん?」と尋ねるしげる君に
蚊の鳴くような声で「おかあちゃん、呼んで来て」とだけ言う。
しげる君はきびすを返して向こうへ行った。これで安心だ!
ところが、いつまでたっても母親も、助けを呼びにいったはずのしげる君も来ないではないか。
私は仰向けのまま、空に流れる雲を見ているしかない。
青空に浮かぶ真っ白な雲の色がだんだんと紅色に染まってくる。
ああ、普段から「あぶないから墓で遊ぶな」といっていた親の言葉の重みがまさに言葉通りに身にしみてくる。
それでも石の重みがだんだん体に馴染んでくる、痛くない呼吸のしかたも習得した頃
「しゅうちゃん」と母親がまっすぐこちらに歩いてくる。
「あんた、ここでなにしとるん」と、私の姿を見ても全く動じない母親。
さすが!こんなピンチの時に動じない母親の姿は何とも頼もしくて、こちらまで安心する。
内心は我が子の危機に母の心臓もドキドキしていたに違いない。
私も落ち着いて「石灯籠が落ちて来た」と言える。
「早くどかしんさい」と全く動じない母親。
私はすこし不思議な感じがした。
なんで動じない?と、
動じなさすぎる。と
しかし、そんな疑問を母親にぶつけている暇はない。
「どかすことが出来ん」と答える
「あら?そうなん」と言ってヒョイと灯籠を持ち上げて、それでやっと解放された。
後で母親に尋ねたところ、しげる君は来なかったらしい。
それでは、なぜ母は墓に来たのか?「なんとなく」という答え。
何故ビックリしなかったかというと。
「あんた普段から、よく墓で寝てるから今回もそうだと思ったんよ」と笑う母親。
心の中で苦笑いする幼い頃の私。
後日、これはず?と後日。しげる君にも何故助けを呼んでくれなかったのかを聞いてみると
「まあ、ええじゃん」(笑)
との返事。
おそらく、子供の頃の事だ。恐ろしくなって家に帰ったのだと思う。
ちなみにしげる君とはその後も今も親友です(笑)
現在しげる君は広島で広告会社の社長をしている。(立派になったな?)
年に一・二度広島に帰った時は一緒に飲みにいくのが楽しみ。
今年も会えるかな?
と、いう事で、お墓で走り回ったり、かくれんぼしたりするのはやめましょうね。子供にも「お墓が降ってくるよ」などと脅してやめさせましょう。
子供たちはほとんど大人しくしている事はなくて、お参り中にお墓の通路を走り回ったりしている。
走り回るのはまだ良いとして、隣の墓に敷き詰められている玉砂利をすくって隣のお墓に移動させたりすると、さすがに親も見過ごす事は出来ず子供を引き寄せたりしている。
子供はイヤイヤしてすり抜けてすぐ同じ事をし始める。
そんな子供を横目に見ていると私の方も昔の思い出がよみがえってハラハラする。
実家のお寺には墓地が隣接してあり、そこは格好の遊び場になっていた。ある夏休み、幼なじみのしげる君とかくれんぼをして遊んでいる時。お墓に隠れた私は大きなお墓の石灯籠の陰に隠れようとして、その石灯籠を乗り越えてお墓との隙間に入ろうとした。
すると、ちょうど石灯籠を乗り越えようと足をかけたとたんにグラグラと揺れた。
マズい!
石灯籠もろともバランスを崩し倒れてしまった。子供にとっては大変大きな石灯籠が私の上に乗る形で。すこしも身動き出来なくなった。私は仰向けに空をあおぐ形で灯籠は私の上にしっかり乗っている。しかもお墓の隙間に閉じ込められる形になっているので、左右に体を動かすことも出来ない。すこしでも動こうとすると、右のあばらに重みが食い込んで痛い。
ohaka
かくれんぼ的にはバッチリ隠れていることになる。命がけのかくれんぼになって来た。
すぐに、呼吸をすることさえ辛くなる。大きな声も出せない状態になる。
「しげる君!たすけて?」と言えない。
かくれんぼをして、こんなに「早く見つけてほしい」と心の底から思った事は後にも先にもこの時だけだ。
しばらくしてしげる君が見つけてくれた!
「しゅうちゃん、どしたん?」と尋ねるしげる君に
蚊の鳴くような声で「おかあちゃん、呼んで来て」とだけ言う。
しげる君はきびすを返して向こうへ行った。これで安心だ!
ところが、いつまでたっても母親も、助けを呼びにいったはずのしげる君も来ないではないか。
私は仰向けのまま、空に流れる雲を見ているしかない。
青空に浮かぶ真っ白な雲の色がだんだんと紅色に染まってくる。
ああ、普段から「あぶないから墓で遊ぶな」といっていた親の言葉の重みがまさに言葉通りに身にしみてくる。
それでも石の重みがだんだん体に馴染んでくる、痛くない呼吸のしかたも習得した頃
「しゅうちゃん」と母親がまっすぐこちらに歩いてくる。
「あんた、ここでなにしとるん」と、私の姿を見ても全く動じない母親。
さすが!こんなピンチの時に動じない母親の姿は何とも頼もしくて、こちらまで安心する。
内心は我が子の危機に母の心臓もドキドキしていたに違いない。
私も落ち着いて「石灯籠が落ちて来た」と言える。
「早くどかしんさい」と全く動じない母親。
私はすこし不思議な感じがした。
なんで動じない?と、
動じなさすぎる。と
しかし、そんな疑問を母親にぶつけている暇はない。
「どかすことが出来ん」と答える
「あら?そうなん」と言ってヒョイと灯籠を持ち上げて、それでやっと解放された。
後で母親に尋ねたところ、しげる君は来なかったらしい。
それでは、なぜ母は墓に来たのか?「なんとなく」という答え。
何故ビックリしなかったかというと。
「あんた普段から、よく墓で寝てるから今回もそうだと思ったんよ」と笑う母親。
心の中で苦笑いする幼い頃の私。
後日、これはず?と後日。しげる君にも何故助けを呼んでくれなかったのかを聞いてみると
「まあ、ええじゃん」(笑)
との返事。
おそらく、子供の頃の事だ。恐ろしくなって家に帰ったのだと思う。
ちなみにしげる君とはその後も今も親友です(笑)
現在しげる君は広島で広告会社の社長をしている。(立派になったな?)
年に一・二度広島に帰った時は一緒に飲みにいくのが楽しみ。
今年も会えるかな?
と、いう事で、お墓で走り回ったり、かくれんぼしたりするのはやめましょうね。子供にも「お墓が降ってくるよ」などと脅してやめさせましょう。
話しはここから妙な展開になってゆく。
これは、あたしがいつの頃だったか、大人から聞いた話ですけど。戦争中に金沢でほんとに起こった出来事。として大人から聞かされたのですが。
ある日、カップルが人目のつかない山に入っていった。その当時はカップルが二人で仲良くする場所がなくて、仲良くするために人目のつかない場所に行くのは、まあ、あった事です。
一通りの事が終わり、しばらく休んでいたのだが、女の子の方が急に悲鳴を上げて苦しみだしたのです。
「ご坊さん知ってます?ヘビって暗くて、狭くって、ジメジメしたところが好きなのです」
「はあ?」(本当はいいたい事がすぐわかったけれど、なんとなく間を置いて)
「しかし、ふつう入ってくるものが、ヘビかそれ以外か気が付いて逃げるでしょう?」
とやっと答える
「きっと、サッと入ったんですよ」
「え?そんなに入りやすいものですかね?」と言いかけるが。
「お!なるほど、そうか? 」と言う
それでね男の人は、ビックリして、ヘビを引き抜こうとしたのよ。でも、ご坊さん知ってる?
ヘビってウロコを立たせて踏ん張ることができるの。
だから、いくら引っ張ってもダメで、そのうち引っ張りすぎて途中で千切れてしまったの。
ちぎれたくらいで死なないヘビは、そのまま中で暴れて、とうとう女の子は死んでしまった。
その時の苦しむ悲鳴といったら聞いておれなかったという。
という話なんです。
( ̄0 ̄)
しばらく唖然と聞いていたけれども、やはりにわかには信じられない。
いや、もしかしたら、年頃の私たちに野外でそんな事させないように大人達の作った物語かもしれないけれどね。
と奥さんは付け加えた。
「実際、その話を聞いていたから、外でデートなんて絶対しませんでしたよ」
さらに
「でも、その話を聞いていた時、私ずっともどかしかったんです。なんで男の人はヘビのお腹を逆撫でしなかったのかって」
そうすれば助かったのに。
と、とっても残念そうでした。
やっぱり信じているのか?と思う一方、あまりにもリアルな話しっぷりにゾッとしました。
その後もう一つさらにショッキングな話が続くのですが、ちょっと憚るのでまた機会があれば披露します。
戦前、戦中、戦後って、この種の世にも奇妙な物語がリアルにたくさんあったのかもしれませんね。
これは、あたしがいつの頃だったか、大人から聞いた話ですけど。戦争中に金沢でほんとに起こった出来事。として大人から聞かされたのですが。
ある日、カップルが人目のつかない山に入っていった。その当時はカップルが二人で仲良くする場所がなくて、仲良くするために人目のつかない場所に行くのは、まあ、あった事です。
一通りの事が終わり、しばらく休んでいたのだが、女の子の方が急に悲鳴を上げて苦しみだしたのです。
「ご坊さん知ってます?ヘビって暗くて、狭くって、ジメジメしたところが好きなのです」
「はあ?」(本当はいいたい事がすぐわかったけれど、なんとなく間を置いて)
「しかし、ふつう入ってくるものが、ヘビかそれ以外か気が付いて逃げるでしょう?」
とやっと答える
「きっと、サッと入ったんですよ」
「え?そんなに入りやすいものですかね?」と言いかけるが。
「お!なるほど、そうか? 」と言う
それでね男の人は、ビックリして、ヘビを引き抜こうとしたのよ。でも、ご坊さん知ってる?
ヘビってウロコを立たせて踏ん張ることができるの。
だから、いくら引っ張ってもダメで、そのうち引っ張りすぎて途中で千切れてしまったの。
ちぎれたくらいで死なないヘビは、そのまま中で暴れて、とうとう女の子は死んでしまった。
その時の苦しむ悲鳴といったら聞いておれなかったという。
という話なんです。
( ̄0 ̄)
しばらく唖然と聞いていたけれども、やはりにわかには信じられない。
いや、もしかしたら、年頃の私たちに野外でそんな事させないように大人達の作った物語かもしれないけれどね。
と奥さんは付け加えた。
「実際、その話を聞いていたから、外でデートなんて絶対しませんでしたよ」
さらに
「でも、その話を聞いていた時、私ずっともどかしかったんです。なんで男の人はヘビのお腹を逆撫でしなかったのかって」
そうすれば助かったのに。
と、とっても残念そうでした。
やっぱり信じているのか?と思う一方、あまりにもリアルな話しっぷりにゾッとしました。
その後もう一つさらにショッキングな話が続くのですが、ちょっと憚るのでまた機会があれば披露します。
戦前、戦中、戦後って、この種の世にも奇妙な物語がリアルにたくさんあったのかもしれませんね。
お参りに行った。
なぜ、そんな話しになったのだろうか?
思い出せない。
おそらく話したお母さんも、私が帰った後に
「なんで、あんな話しをわたしはしたのだろうか?」
といぶかしく思ったに違いない。
今から話すお話は、そんなお話(実話)です。
私は小さい頃からカエルが平気で、小学生のとき解剖の実験で、カエルが必要なとき率先して解剖用のカエルを捕りに行くぐらいの娘でした。
理科の実験当日、クラスの女の子がカエルを触るのさえ怖がって「きゃーきゃー」言うので、私も女の子らしさを出そうと一緒に叫んでいたら
「○○さん、演技はやめなさい」って先生に突っ込まれたりしてね〜(笑)
私も昔は恐がりだったのだけれど、男の子がカエルやヘビを持って女子を追いかけてくるので、それが嫌で。
ー追いかけられるより、追いかける方になりたいー
とある日思って、男子が落としたヘビを(いやいや)持って、逆に追いかけたら気持ちよくって。触ってみるとそんなに抵抗感も無かったのよ。
それ以来、一目置かれる存在になったそうだ。
今こうやって話していると、そんなにやんちゃだった幼年期を送ったふうには見えないお母さんである。これで何年も毎月のお参りでお会いしているのだが、そのお母さんに対するイメージがガラリと変わった。ほんと、人って話してみないとわからないものである。
今の小学校ではあるのだろうね?あったとしても少なくなったと思うけれど
課外授業といえば、クラスのみなでよく野山に行った。
ある日、いつものように先生に引率されて行く途中、先生ははっているヘビを見つけると手際よく捕まえると、
「よし、今からヘビをおとなしくする方法を教えます」
「だれか、やってみるものはいますか」
と言った
お坊さん。それで私、すぐ手を挙げてね。先生に教えられて通りにしたら、ヘビがグッタリと大人しくなったのですよ。
先生も、まさか女子の私が何の躊躇も無く、先生の言った通りに出来るなんて想像していなかったらしく、驚いていまして。
方法ですか?ーヘビの腹を尻尾から頭へ向けて撫でるのですー
「ヘビの鱗を逆立てるように逆になでてやると、おとなしくなるんですよ」とにっこり笑いながら手振りを交えて説明してくれる。
話しはここから妙な展開になってゆくのである。
つづく
なぜ、そんな話しになったのだろうか?
思い出せない。
おそらく話したお母さんも、私が帰った後に
「なんで、あんな話しをわたしはしたのだろうか?」
といぶかしく思ったに違いない。
今から話すお話は、そんなお話(実話)です。
私は小さい頃からカエルが平気で、小学生のとき解剖の実験で、カエルが必要なとき率先して解剖用のカエルを捕りに行くぐらいの娘でした。
理科の実験当日、クラスの女の子がカエルを触るのさえ怖がって「きゃーきゃー」言うので、私も女の子らしさを出そうと一緒に叫んでいたら
「○○さん、演技はやめなさい」って先生に突っ込まれたりしてね〜(笑)
私も昔は恐がりだったのだけれど、男の子がカエルやヘビを持って女子を追いかけてくるので、それが嫌で。
ー追いかけられるより、追いかける方になりたいー
とある日思って、男子が落としたヘビを(いやいや)持って、逆に追いかけたら気持ちよくって。触ってみるとそんなに抵抗感も無かったのよ。
それ以来、一目置かれる存在になったそうだ。
今こうやって話していると、そんなにやんちゃだった幼年期を送ったふうには見えないお母さんである。これで何年も毎月のお参りでお会いしているのだが、そのお母さんに対するイメージがガラリと変わった。ほんと、人って話してみないとわからないものである。
今の小学校ではあるのだろうね?あったとしても少なくなったと思うけれど
課外授業といえば、クラスのみなでよく野山に行った。
ある日、いつものように先生に引率されて行く途中、先生ははっているヘビを見つけると手際よく捕まえると、
「よし、今からヘビをおとなしくする方法を教えます」
「だれか、やってみるものはいますか」
と言った
お坊さん。それで私、すぐ手を挙げてね。先生に教えられて通りにしたら、ヘビがグッタリと大人しくなったのですよ。
先生も、まさか女子の私が何の躊躇も無く、先生の言った通りに出来るなんて想像していなかったらしく、驚いていまして。
方法ですか?ーヘビの腹を尻尾から頭へ向けて撫でるのですー
「ヘビの鱗を逆立てるように逆になでてやると、おとなしくなるんですよ」とにっこり笑いながら手振りを交えて説明してくれる。
話しはここから妙な展開になってゆくのである。
つづく
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先日鶴来町へお参りに行った。
久しぶりにお会いしたら、そこの奥さんの髪の色が変っていたように思い。
「髪の色変えましたか?」
と尋ねた。
すると、奥さんは怪訝そうに
「え?」
と言った。
私としては、(女の人は髪型を変えたら、それを指摘すると喜ぶ。)
(それに気づかない、もしくは気づいても褒めない男はモテない)
と、何処かの雑誌で読んだことがあるので、「喜ばれる!」と思って尋ねたのだが、逆効果であった。
「白髪染めが落ちただけです」
と、にべもない返答。
「いや〜 うちの母も白髪染めしてますよ〜」
と、訳の分からない返事をしたら、「ハ〜ン?」と、奥さんもどう答えていいか困った様子、
よけい気まずくなった~
いくら、雑誌の知識があっても、空気が読めないというか、TPOをわきまえて使用しないとひどい状況に陥るのである。
マニュアル本でうまくいってたら、私なんてとうの昔に・・・
いや愚痴はよしときましょう。
汗をかきかき読経を終えた後
奥さんが「お坊さんの格好って暑いでしょう?」
と親切な言葉をかけてくれた。
チャンス!
今話題のクールビズのことならまかせとけ!
最近仕入れた知識で、坊主の衣の凄さをアピールするのだ。
そして、さっきの落ちのなかった会話を挽回するのだ!
私はすかさず
「ええ、暑いですね。でもこの衣って夏用なんですよ」
「ほら、クールビズって知ってますよね!?」
「いいえ〜」
「あっ そうですか、」 (ここでひるんではいけない)
「いま・・・」
「いまとっても流行っているんですよ〜 日本全国の会社員がこぞってクールビズって背広を着ているのです。」(ここは大袈裟でよい)
「この背広を着ると涼しいのでエアコンの温度を下げすぎなくて済むのです。エコなんです。地球に優しいんです」
なんか上手くプレゼンできない。
テレビや雑誌を見て予備知識がある人に話すのは簡単だが、
予備知識のない人に伝えるのは難しい。
「でもね、ほらこの夏用の衣、「絡み折り」っていって、実は今流行っているクールビズってこの衣を背広に応用したものなんです。」
奥さん「はあ」
「つまり。私が着ている衣は1000年前から地球に優しいんです。(エッヘン!)」
奥さん「・・・でも暑そうですね」
「あれ?そうですか。僕には優しくないみたいです〜(笑)」
「そうそう、きっと帯びしめてるからですね。」
「これがまた、夏は暑くて、冬はスースーして寒いんですよ」
「僕も背広着たい〜 なんて。 ハハハ」
乾いた笑い。そして乾いた空気と共に、一千年の歴史がもろくも崩れ去っていく。
会話は尻つぼみになり、なんか敗北感を感じながら帰った。
誰か乾いた心に潤いを!
久しぶりにお会いしたら、そこの奥さんの髪の色が変っていたように思い。
「髪の色変えましたか?」
と尋ねた。
すると、奥さんは怪訝そうに
「え?」
と言った。
私としては、(女の人は髪型を変えたら、それを指摘すると喜ぶ。)
(それに気づかない、もしくは気づいても褒めない男はモテない)
と、何処かの雑誌で読んだことがあるので、「喜ばれる!」と思って尋ねたのだが、逆効果であった。
「白髪染めが落ちただけです」
と、にべもない返答。
「いや〜 うちの母も白髪染めしてますよ〜」
と、訳の分からない返事をしたら、「ハ〜ン?」と、奥さんもどう答えていいか困った様子、
よけい気まずくなった~
いくら、雑誌の知識があっても、空気が読めないというか、TPOをわきまえて使用しないとひどい状況に陥るのである。
マニュアル本でうまくいってたら、私なんてとうの昔に・・・
いや愚痴はよしときましょう。
汗をかきかき読経を終えた後
奥さんが「お坊さんの格好って暑いでしょう?」
と親切な言葉をかけてくれた。
チャンス!
今話題のクールビズのことならまかせとけ!
最近仕入れた知識で、坊主の衣の凄さをアピールするのだ。
そして、さっきの落ちのなかった会話を挽回するのだ!
私はすかさず
「ええ、暑いですね。でもこの衣って夏用なんですよ」
「ほら、クールビズって知ってますよね!?」
「いいえ〜」
「あっ そうですか、」 (ここでひるんではいけない)
「いま・・・」
「いまとっても流行っているんですよ〜 日本全国の会社員がこぞってクールビズって背広を着ているのです。」(ここは大袈裟でよい)
「この背広を着ると涼しいのでエアコンの温度を下げすぎなくて済むのです。エコなんです。地球に優しいんです」
なんか上手くプレゼンできない。
テレビや雑誌を見て予備知識がある人に話すのは簡単だが、
予備知識のない人に伝えるのは難しい。
「でもね、ほらこの夏用の衣、「絡み折り」っていって、実は今流行っているクールビズってこの衣を背広に応用したものなんです。」
奥さん「はあ」
「つまり。私が着ている衣は1000年前から地球に優しいんです。(エッヘン!)」
奥さん「・・・でも暑そうですね」
「あれ?そうですか。僕には優しくないみたいです〜(笑)」
「そうそう、きっと帯びしめてるからですね。」
「これがまた、夏は暑くて、冬はスースーして寒いんですよ」
「僕も背広着たい〜 なんて。 ハハハ」
乾いた笑い。そして乾いた空気と共に、一千年の歴史がもろくも崩れ去っていく。
会話は尻つぼみになり、なんか敗北感を感じながら帰った。
誰か乾いた心に潤いを!
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毎月のお参りに行っていた。おばあちゃんが92歳でお亡くなりになった。
一人暮らしの老人で、足は悪かったが「内蔵は何ともない」が自慢で口癖だった。
3ヶ月前から連絡が取れなくなり、きっと入院されたんだろうとは思っていたが、なくなるとは思っていなかったのでショックだった。
毎月のお参りを欠かさないおばあちゃんは、お参りに行っても息子や孫の自慢話しや、何処そこへおいしい食事を食べに行ったけれど、とても美味しかったのであなたも行きなさい、とアドバイスをくれたりして。特に仏教に熱心なそぶりは見せなかった。
しかし、食事の話しをするのも、私が一人暮らしだからそれを心配して行ってくれていたのを知っていた。
足が痛いくて、生活に不自由しているのにほとんど愚痴を言わず、
「こうやってなんとか元気で生活させてもらっておるのを、喜ばんならん」
と自分を励ましておいででした。
そんなおばあちゃんに、私のほうからも仏教の話しをした事はなかった。
(もともと、苦手なのですが。そういう事でもなくて)
私は以前、自分が入院した経験から、病気の話しを聞いてもらう事(心配してもらう事とも微妙に違うのですが)を病気を抱えている人は好むと知っていたので、毎月かならず(私は医者でもないのに)足の容態を聞いて、帰る間際には「おばあちゃんお大事に」と言って帰っていた。
私が風邪などで喉を痛めているときは、おばあちゃんが「お大事に」と声をかけてくれた。
こんな何気ない優しい気持ちが、ほとけ様のこころ持ちなのかもしれない。
ほんの数年の間、月に一度少しの時間を共有しただけなのだが、寂しい気持ちである。
おやすみなさい。
一人暮らしの老人で、足は悪かったが「内蔵は何ともない」が自慢で口癖だった。
3ヶ月前から連絡が取れなくなり、きっと入院されたんだろうとは思っていたが、なくなるとは思っていなかったのでショックだった。
毎月のお参りを欠かさないおばあちゃんは、お参りに行っても息子や孫の自慢話しや、何処そこへおいしい食事を食べに行ったけれど、とても美味しかったのであなたも行きなさい、とアドバイスをくれたりして。特に仏教に熱心なそぶりは見せなかった。
しかし、食事の話しをするのも、私が一人暮らしだからそれを心配して行ってくれていたのを知っていた。
足が痛いくて、生活に不自由しているのにほとんど愚痴を言わず、
「こうやってなんとか元気で生活させてもらっておるのを、喜ばんならん」
と自分を励ましておいででした。
そんなおばあちゃんに、私のほうからも仏教の話しをした事はなかった。
(もともと、苦手なのですが。そういう事でもなくて)
私は以前、自分が入院した経験から、病気の話しを聞いてもらう事(心配してもらう事とも微妙に違うのですが)を病気を抱えている人は好むと知っていたので、毎月かならず(私は医者でもないのに)足の容態を聞いて、帰る間際には「おばあちゃんお大事に」と言って帰っていた。
私が風邪などで喉を痛めているときは、おばあちゃんが「お大事に」と声をかけてくれた。
こんな何気ない優しい気持ちが、ほとけ様のこころ持ちなのかもしれない。
ほんの数年の間、月に一度少しの時間を共有しただけなのだが、寂しい気持ちである。
おやすみなさい。
今日は、挨拶についての法話をした。
ジョージ秋山作のビックコミックオリジナルに連載中の「浮浪雲」は現在単行本で79巻にもなる。
ちなみに、「ゴルゴ13」は現在で135巻、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は144巻。
昔、秋本 治がいつか「ゴルゴ13を抜くのが夢だ。」と漫画の中で両津さんにしゃべらせていたが、いつの間にか抜いてましたね。
継続は力なり!おめでとうございます。
ブログも毎日書けば、一年ほどでこち亀の記録を抜きます。
でも、やってみると結構大変ですよね!?。毎日、新聞に連載している4コマ漫画家など、神業に思えます。
話は戻って、挨拶についてお話ししたらその後の座談会で少し話題になったようで、よかった。
漫画には挨拶の「挨」は心を開く「拶」は心から引き出す。と説明されていたと思いますが、後でネットで調べたら、少々違いました。
その違いは、http://gogen-allguide.com/a/aisatsu.html や
http://www1.big.or.jp/~temple21/teramode/16/butugo16.htm でご覧下さい。一番参考になったのは
http://www.geocities.jp/journey4web/Labo/Kenarigato.html
です。たとえ話が面白い。
普段何気なくしている挨拶に、大切な意味が込められているのですね。
では、おやすみさない
ジョージ秋山作のビックコミックオリジナルに連載中の「浮浪雲」は現在単行本で79巻にもなる。
ちなみに、「ゴルゴ13」は現在で135巻、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は144巻。
昔、秋本 治がいつか「ゴルゴ13を抜くのが夢だ。」と漫画の中で両津さんにしゃべらせていたが、いつの間にか抜いてましたね。
継続は力なり!おめでとうございます。
ブログも毎日書けば、一年ほどでこち亀の記録を抜きます。
でも、やってみると結構大変ですよね!?。毎日、新聞に連載している4コマ漫画家など、神業に思えます。
話は戻って、挨拶についてお話ししたらその後の座談会で少し話題になったようで、よかった。
漫画には挨拶の「挨」は心を開く「拶」は心から引き出す。と説明されていたと思いますが、後でネットで調べたら、少々違いました。
その違いは、http://gogen-allguide.com/a/aisatsu.html や
http://www1.big.or.jp/~temple21/teramode/16/butugo16.htm でご覧下さい。一番参考になったのは
http://www.geocities.jp/journey4web/Labo/Kenarigato.html
です。たとえ話が面白い。
普段何気なくしている挨拶に、大切な意味が込められているのですね。
では、おやすみさない
今日は一件もお参りなし。でも忙しかった
2005年6月6日 お仕事今日も飲み会だった。200名近くの人がつまり、楽しくはあったが、職場での大きな飲み会だったので、少々気づかれ。
接待する側でしたからね。しかも二連ちゃんはやはり辛かった〜
でも、昨晩ご一緒した方や、飲み屋で意気投合した人などに会い、なんか飲みつながりの人との出会いにビックリ。
う〜ん、飲むのも度を超さなければいい人間関係を作る機会になります。
つまらない、けんかの種にもなりますけどね。
酒好きの言い訳かな?
明日は法話をする日なので今から予習です。
イメージトレーニング(^^)
これ結構大事。
接待する側でしたからね。しかも二連ちゃんはやはり辛かった〜
でも、昨晩ご一緒した方や、飲み屋で意気投合した人などに会い、なんか飲みつながりの人との出会いにビックリ。
う〜ん、飲むのも度を超さなければいい人間関係を作る機会になります。
つまらない、けんかの種にもなりますけどね。
酒好きの言い訳かな?
明日は法話をする日なので今から予習です。
イメージトレーニング(^^)
これ結構大事。
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芍薬と牡丹と・・・のケツ 2
2005年6月4日 お仕事昨晩は、日記を書いていたら夜遅くにお誘いの電話があり、直行〜 最近一人では飲みにでない事にしており、意志が弱いにも関わらず続いている。
その反動か、お誘いがあれば飛んでいきます。
実は今もお誘いの電話が鳴ったのですが、残念ながら明日は早いので断念!
残念!
こちらの町では有名だったバーのマスターが、修行から帰って来たのだ。
-ここから、昨日の続きです-
仏間に通されてみると芍薬(しゃくやく)の花があるではないか。
見た私は、敏感に反応した。
それには、訳がある。
ある門徒さんが、お寺に素晴らしいきれいな花を持って来て下さったのである。
普段あまりは何興味のない私たちだが、そのあまりの美しさに、「なんて名前だろう?」と議論になったのだが、最初は牡丹と言う事でおさまっていた。
しかし、後でそれは芍薬である事が判明。さらに、牡丹と芍薬は大変似ているという事もわかった。(調べてみると同じ牡丹科ですね )
http://www.hana300.com/syakuy.html
それは美しい花で、日の光を受けると花が自ら発光している如く輝いているのである。
よく、美人を表現する言葉に「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と言うが、それも納得である。
そういう知識を得てみると、お参りに行く先々で、玄関の庭先や床の間に生けてある花々に目がいくようになるもんである。芍薬らしき花があると、
「これ、牡丹ですか?芍薬ですか?」などと、知ったばかりの花の名前を言うと、家人との話の種にもなって。話題にも花が咲く事を知った。
そんな訳で、仏間の花を見ると早速、おばあちゃんに質問してみた。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花って言いますよね。
言われた事あります?」
ほんの一瞬の静けさが・・・
ちょっと毒舌すぎたかな?と思ったのつかの間
娘さんが
「まった、答えにくいことを言って〜」と笑う
すると。
東京から来たおばあちゃんが
「歩く姿は豚のケツって言われた事はあってもね。」
としらっと言い放った。
つっこまれても痛快なおばあちゃん達。
このお宅にお参りに行くのは、毎月の楽しみである。
おわり
その反動か、お誘いがあれば飛んでいきます。
実は今もお誘いの電話が鳴ったのですが、残念ながら明日は早いので断念!
残念!
こちらの町では有名だったバーのマスターが、修行から帰って来たのだ。
-ここから、昨日の続きです-
仏間に通されてみると芍薬(しゃくやく)の花があるではないか。
見た私は、敏感に反応した。
それには、訳がある。
ある門徒さんが、お寺に素晴らしいきれいな花を持って来て下さったのである。
普段あまりは何興味のない私たちだが、そのあまりの美しさに、「なんて名前だろう?」と議論になったのだが、最初は牡丹と言う事でおさまっていた。
しかし、後でそれは芍薬である事が判明。さらに、牡丹と芍薬は大変似ているという事もわかった。(調べてみると同じ牡丹科ですね )
http://www.hana300.com/syakuy.html
それは美しい花で、日の光を受けると花が自ら発光している如く輝いているのである。
よく、美人を表現する言葉に「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と言うが、それも納得である。
そういう知識を得てみると、お参りに行く先々で、玄関の庭先や床の間に生けてある花々に目がいくようになるもんである。芍薬らしき花があると、
「これ、牡丹ですか?芍薬ですか?」などと、知ったばかりの花の名前を言うと、家人との話の種にもなって。話題にも花が咲く事を知った。
そんな訳で、仏間の花を見ると早速、おばあちゃんに質問してみた。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花って言いますよね。
言われた事あります?」
ほんの一瞬の静けさが・・・
ちょっと毒舌すぎたかな?と思ったのつかの間
娘さんが
「まった、答えにくいことを言って〜」と笑う
すると。
東京から来たおばあちゃんが
「歩く姿は豚のケツって言われた事はあってもね。」
としらっと言い放った。
つっこまれても痛快なおばあちゃん達。
このお宅にお参りに行くのは、毎月の楽しみである。
おわり
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芍薬と牡丹と・・・のケツ
2005年6月3日 お仕事毎月、命日のお参りに行っているTさんというおばあちゃんのお宅は、尾小屋という町にある。すぐ隣にスキー場があるほどの山奥だが、スキー客誘致のため道路は整備されており、信号の多い町中を走るより、かえって早く着いたりする。
元気なおばあちゃんが一人暮らしだが(一人暮らしお宅は多い)、毎月嫁に行った娘さんもおいでになる。
これまたとっても元気な人で、歯に衣を着せぬ言動が面白い。
この親子だけでも会話のキャッチボールが面白いのだが、この日は年に何度か尾小屋に帰ってくる、東京のおばあさんが加わった。かしましいというか、こうなるとさらに会話に弾みがつく。
この町はインターネットも開通していない山奥なのだが、私も知らない小松のお寺事情や、うわさ話、昔の尾小屋の話などが出てきて、ネットサーフィンより断然面白いレア情報がまんさいである。
玄関に入るなりに、娘さんがマジマジと私の顔を覗き込みながら、
「お坊さん、先日魚屋さんのおばあちゃんの通夜に出とったやろ?」
「ええ」
「やっぱし、通夜と葬儀両方出とったやろ?」
「・・・はい」
「そうか、なんか ○○さん、葬式の時の方がえろう若う見えたわ〜」
「はあ?」
(一同爆笑)
すかさず、東京のおばあさんが
「あんた、それは違う。周りのお坊さんが年寄りばっかりやし、若う見えただけや、あっはははは〜」
間髪入れず、おばあちゃんが
「あんた、それが(坊さんが)来るなり言う事か。失礼な」と言うが
あまり失礼とは思っていない様子で笑っている。
娘さんは、それでも首を傾げながら、穴があくほど私の顔を見ている。
まだ、いつもの私と葬儀であった私とが同一人物か確かめているようである。
以上、玄関から上がって二三歩歩く間に瞬く間にかわされた、会話である。
機関銃で打たれた衝撃ってこんなんだろうか?
玄関でひと笑いあった後、
仏間に通されてみると芍薬(しゃくやく)の花があるではないか。
つづく
元気なおばあちゃんが一人暮らしだが(一人暮らしお宅は多い)、毎月嫁に行った娘さんもおいでになる。
これまたとっても元気な人で、歯に衣を着せぬ言動が面白い。
この親子だけでも会話のキャッチボールが面白いのだが、この日は年に何度か尾小屋に帰ってくる、東京のおばあさんが加わった。かしましいというか、こうなるとさらに会話に弾みがつく。
この町はインターネットも開通していない山奥なのだが、私も知らない小松のお寺事情や、うわさ話、昔の尾小屋の話などが出てきて、ネットサーフィンより断然面白いレア情報がまんさいである。
玄関に入るなりに、娘さんがマジマジと私の顔を覗き込みながら、
「お坊さん、先日魚屋さんのおばあちゃんの通夜に出とったやろ?」
「ええ」
「やっぱし、通夜と葬儀両方出とったやろ?」
「・・・はい」
「そうか、なんか ○○さん、葬式の時の方がえろう若う見えたわ〜」
「はあ?」
(一同爆笑)
すかさず、東京のおばあさんが
「あんた、それは違う。周りのお坊さんが年寄りばっかりやし、若う見えただけや、あっはははは〜」
間髪入れず、おばあちゃんが
「あんた、それが(坊さんが)来るなり言う事か。失礼な」と言うが
あまり失礼とは思っていない様子で笑っている。
娘さんは、それでも首を傾げながら、穴があくほど私の顔を見ている。
まだ、いつもの私と葬儀であった私とが同一人物か確かめているようである。
以上、玄関から上がって二三歩歩く間に瞬く間にかわされた、会話である。
機関銃で打たれた衝撃ってこんなんだろうか?
玄関でひと笑いあった後、
仏間に通されてみると芍薬(しゃくやく)の花があるではないか。
つづく
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昨日久しぶりに飲んだら、調子に乗って飲み過ぎて、今日は辛かった。最近体調がいいので、いつもの飲み過ぎより楽で、お仕事には支障がなかったけれど。それでも反省〜(^^;)
今日、小菅波という町にお参りに行きました。
そこでビックリしたのはある家のお仏壇が手作りだったのだ!
思わず携帯で写真とりました。
http://photos.yahoo.co.jp/shuibbjp
お話を聞くと、亡きお父さんの手によるものでした。
結婚した時にプレゼントしてくれたものだそうです。
お仏壇を?お祝いに?
と思う人もいるかもしれませんが、家を構えたら家族で手を合わせる場所を持つ事の大切さを知っていたお父さんなのでしょう。
「本当は買ってあげたかったと思うんですが」
と家の方は話していましたが、表情はどことなく誇らしげでした。
お父さんの気持ちがこもっているお仏壇は、ほかには比べ物にならない素晴らしい贈り物だと思いました。
今日、小菅波という町にお参りに行きました。
そこでビックリしたのはある家のお仏壇が手作りだったのだ!
思わず携帯で写真とりました。
http://photos.yahoo.co.jp/shuibbjp
お話を聞くと、亡きお父さんの手によるものでした。
結婚した時にプレゼントしてくれたものだそうです。
お仏壇を?お祝いに?
と思う人もいるかもしれませんが、家を構えたら家族で手を合わせる場所を持つ事の大切さを知っていたお父さんなのでしょう。
「本当は買ってあげたかったと思うんですが」
と家の方は話していましたが、表情はどことなく誇らしげでした。
お父さんの気持ちがこもっているお仏壇は、ほかには比べ物にならない素晴らしい贈り物だと思いました。
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勢至の功徳2 回答1<表バージョン>
2005年2月26日 お仕事私の質問に答えてくれた方がいました。
ネットの力のスゴさを実感しました。
まずはある女性から、ちなみにこの方は、坊主ではありません。
『どんな所であっても、智恵を授けて極楽へと導きます』ってことかなー?
要するに、『智恵をもって生きていけますように!迷ったとしても必ず勢至菩薩が助けてくださるでしょう』という願いですか!
後、午年生まれの守り本尊らしいけど、その娘さんって午年生まれだったのかも?
関係ないかもしれないが、山、川についても調べてみた。下のほう参照。
------とりあえず----
勢至菩薩について調べてみた。めちゃパワフルな菩薩のようである!&派手ですな?
ただ歩くだけでスゴイ下のほうにある悪魔の宮殿をも揺すぶる程のパワーだとか?
http://www.icho.gr.jp/siryo/oushajo/ou-13.htm 他 より抜粋。
智慧(ちえ)の光で生きとし生けるものを照らして地獄、餓鬼、畜生の三悪道(さんまくどう)から離れさせ、無上の力を得させる。
この菩薩の冠には五百の宝石の華が散りばめられ、一つひとつの華に更に五百の宝石の台がついている。その一つひとつの台の中に十方の仏たちの清らかで広々とした
仏国土(ぶっこくど)が現れている。
この菩薩が歩くと十方の世界が震動し、その震動する所に五百億の宝石の華が咲く。その一つひとつの花は荘厳(しょうごん)で極楽世界そのままである。
また、この菩薩が座ると七宝(しっぽう)の国土が揺れ動き、下方の金光仏(こんこうぶつ)の国土から上方の光明(こうみょう)王仏の国土まで一時(いっとき)に震動する。その中ほどに塵の数のように限りない無量仏、観世音菩薩、大勢至(せいし)菩薩の分身が極楽国に雲のように集い、空中を埋め尽くすほどに列をなし、各々蓮華の台座に座って苦しむ衆生を救おうと説法している。
この菩薩を観る人は永劫(ようごう)にわたって生死(しょうじ)の迷いから解き放たれ、諸仏の浄土に遊ぶ。
-----山-----
山の頂上へ、阿弥陀如来の来迎があるという信仰が日本にはある。山の彼方から阿弥陀如来と観音・勢至菩薩の三尊が、上半身をあらわして、行者を来迎する。
------川------
三途というのは三途の川と一般にいわれていますが、火途、血途、刀途という地獄、餓鬼、畜生の迷いと苦しみの三つの世界であり、焦熱地獄、血の池地獄、針の山地獄ともいわれています。このような迷いの世界を強い智恵で打ち破り、仏道に入れて覚りに至らしめるというのが勢至菩薩のお力であります。
------ 一つに結ぶ------
名前の如く、得大な智慧の勢いをもって、直路(真っすぐな路)を示して、極楽浄土へ至らしめるという徳目を備える。
「觀無量寿経」には、「知恵の光をもって、普く一切を照らし三塗(さんず)を離れ無上の力を得る」と説かれ、苦しみや迷いの世界に在る者を、三世に亙って広遠に
続く悲願と、十方自在に巡らす神力を駆使して、智慧(釈尊の教えの理論や道理で、世の全て見通す、或いは理解して認識する賢さ)の光で包み、衆生を抱きかかえて成仏を促すという。 密号を持輪金剛・持光金剛・転輪金剛・空生金剛。
--------なるほど〜-----
勢至菩薩は、智恵の光をもってあまねく一切を照らし、三途(六道中の三悪道)を離れさせる 無上の力をもっているといわれ、また勢至菩薩が足をただ投じただけでも、三千世界や悪魔の宮殿をも震動するほどであるといわれています。
勢至菩薩は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀とともに観音や多数の奏楽・供養菩薩などと雲に乗り、極楽浄土から浄土往生を願う臨終の人々を迎えに来るという信仰をもとに描かれる阿弥陀聖衆来迎図(あみだしょうじゅらいごうず)に、合掌し観音とともに聖衆の先頭部にその姿が描かれています。また、大師が中国より請来した両
部曼荼羅中の胎蔵曼荼羅、蓮華部院(観音院)にも大勢至菩薩として描かれ、衆生が本来的に持っている仏心を大きく開かせようとする意欲を示している菩薩とされています。
きっと午歳生まれの守り神として。そして勢至菩薩が今世も来世(死後)も智恵を授けてこの子供を助けてくれますように!という願いを込めてたものなんでしょうかー。
山にあろうと、川にあろうと至るところは一つである。と。
山にあるのは、智恵を求めて登る行者。川にあるのは、三途で迷える人。
そういう一切の人々を救うのが勢至の功徳である。
以上です。
凄いですね、理にかなっております。
<その娘さんって午年生まれだったのかも?>
<山にあろうと、川にあろうと至るところは一つである>
<勢至菩薩が今世も来世(死後)も智恵を授けてこの子供を助けてくれますように!という願いを込めてたものなんでしょうか>
素晴らしい解釈です。
全く違う解釈をしていた私は感動しました。そして自分がちょっぴり恥ずかしくなりました。
その内容はまた後日。
ネットの力のスゴさを実感しました。
まずはある女性から、ちなみにこの方は、坊主ではありません。
『どんな所であっても、智恵を授けて極楽へと導きます』ってことかなー?
要するに、『智恵をもって生きていけますように!迷ったとしても必ず勢至菩薩が助けてくださるでしょう』という願いですか!
後、午年生まれの守り本尊らしいけど、その娘さんって午年生まれだったのかも?
関係ないかもしれないが、山、川についても調べてみた。下のほう参照。
------とりあえず----
勢至菩薩について調べてみた。めちゃパワフルな菩薩のようである!&派手ですな?
ただ歩くだけでスゴイ下のほうにある悪魔の宮殿をも揺すぶる程のパワーだとか?
http://www.icho.gr.jp/siryo/oushajo/ou-13.htm 他 より抜粋。
智慧(ちえ)の光で生きとし生けるものを照らして地獄、餓鬼、畜生の三悪道(さんまくどう)から離れさせ、無上の力を得させる。
この菩薩の冠には五百の宝石の華が散りばめられ、一つひとつの華に更に五百の宝石の台がついている。その一つひとつの台の中に十方の仏たちの清らかで広々とした
仏国土(ぶっこくど)が現れている。
この菩薩が歩くと十方の世界が震動し、その震動する所に五百億の宝石の華が咲く。その一つひとつの花は荘厳(しょうごん)で極楽世界そのままである。
また、この菩薩が座ると七宝(しっぽう)の国土が揺れ動き、下方の金光仏(こんこうぶつ)の国土から上方の光明(こうみょう)王仏の国土まで一時(いっとき)に震動する。その中ほどに塵の数のように限りない無量仏、観世音菩薩、大勢至(せいし)菩薩の分身が極楽国に雲のように集い、空中を埋め尽くすほどに列をなし、各々蓮華の台座に座って苦しむ衆生を救おうと説法している。
この菩薩を観る人は永劫(ようごう)にわたって生死(しょうじ)の迷いから解き放たれ、諸仏の浄土に遊ぶ。
-----山-----
山の頂上へ、阿弥陀如来の来迎があるという信仰が日本にはある。山の彼方から阿弥陀如来と観音・勢至菩薩の三尊が、上半身をあらわして、行者を来迎する。
------川------
三途というのは三途の川と一般にいわれていますが、火途、血途、刀途という地獄、餓鬼、畜生の迷いと苦しみの三つの世界であり、焦熱地獄、血の池地獄、針の山地獄ともいわれています。このような迷いの世界を強い智恵で打ち破り、仏道に入れて覚りに至らしめるというのが勢至菩薩のお力であります。
------ 一つに結ぶ------
名前の如く、得大な智慧の勢いをもって、直路(真っすぐな路)を示して、極楽浄土へ至らしめるという徳目を備える。
「觀無量寿経」には、「知恵の光をもって、普く一切を照らし三塗(さんず)を離れ無上の力を得る」と説かれ、苦しみや迷いの世界に在る者を、三世に亙って広遠に
続く悲願と、十方自在に巡らす神力を駆使して、智慧(釈尊の教えの理論や道理で、世の全て見通す、或いは理解して認識する賢さ)の光で包み、衆生を抱きかかえて成仏を促すという。 密号を持輪金剛・持光金剛・転輪金剛・空生金剛。
--------なるほど〜-----
勢至菩薩は、智恵の光をもってあまねく一切を照らし、三途(六道中の三悪道)を離れさせる 無上の力をもっているといわれ、また勢至菩薩が足をただ投じただけでも、三千世界や悪魔の宮殿をも震動するほどであるといわれています。
勢至菩薩は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀とともに観音や多数の奏楽・供養菩薩などと雲に乗り、極楽浄土から浄土往生を願う臨終の人々を迎えに来るという信仰をもとに描かれる阿弥陀聖衆来迎図(あみだしょうじゅらいごうず)に、合掌し観音とともに聖衆の先頭部にその姿が描かれています。また、大師が中国より請来した両
部曼荼羅中の胎蔵曼荼羅、蓮華部院(観音院)にも大勢至菩薩として描かれ、衆生が本来的に持っている仏心を大きく開かせようとする意欲を示している菩薩とされています。
きっと午歳生まれの守り神として。そして勢至菩薩が今世も来世(死後)も智恵を授けてこの子供を助けてくれますように!という願いを込めてたものなんでしょうかー。
山にあろうと、川にあろうと至るところは一つである。と。
山にあるのは、智恵を求めて登る行者。川にあるのは、三途で迷える人。
そういう一切の人々を救うのが勢至の功徳である。
以上です。
凄いですね、理にかなっております。
<その娘さんって午年生まれだったのかも?>
<山にあろうと、川にあろうと至るところは一つである>
<勢至菩薩が今世も来世(死後)も智恵を授けてこの子供を助けてくれますように!という願いを込めてたものなんでしょうか>
素晴らしい解釈です。
全く違う解釈をしていた私は感動しました。そして自分がちょっぴり恥ずかしくなりました。
その内容はまた後日。
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山川を
右と左にかき分けて
一つにむすぶ
勢至の功徳
この歌は、お寺の同僚がお参りに行っているお宅で、歌の意味を質問されたと、私にも教えてくれた歌です。
最近若い娘を亡くして(自死です)、お参りをしているお宅だが、その娘の名付け親がお坊さんで、その時名前と一緒に上記の歌も贈ってくれたという。
そういう謂われのある歌です。
娘を亡くした今、命名の字とともに、歌も出てきて、改めてこの歌の意味を知りたいと思ったのだが、命名してくださったお坊さんも既に御亡くなりになっており、もう聞けないという事です。
皆さんはこの歌をどう解釈しますか?
子供が誕生した時の歌である事から、
両親が子供を授かった喜びを表現しているのでは?と推察されます。
今、途中まで私なりに解釈は出来ているのですが、それはまた後日に。
ちなみに
勢至菩薩とは、梵語ではマハーストハーマ・プラープタといい「大勢至菩薩」「得大
勢」ともいい、智恵の光明が強くて一切を照らし、人々を救うとされます。阿弥陀如
来の智慧を表現する、脇侍の菩薩である。http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/seishi.htm
お坊さんだけに、そこに何かの意味を込めているのでしょうか?
右と左にかき分けて
一つにむすぶ
勢至の功徳
この歌は、お寺の同僚がお参りに行っているお宅で、歌の意味を質問されたと、私にも教えてくれた歌です。
最近若い娘を亡くして(自死です)、お参りをしているお宅だが、その娘の名付け親がお坊さんで、その時名前と一緒に上記の歌も贈ってくれたという。
そういう謂われのある歌です。
娘を亡くした今、命名の字とともに、歌も出てきて、改めてこの歌の意味を知りたいと思ったのだが、命名してくださったお坊さんも既に御亡くなりになっており、もう聞けないという事です。
皆さんはこの歌をどう解釈しますか?
子供が誕生した時の歌である事から、
両親が子供を授かった喜びを表現しているのでは?と推察されます。
今、途中まで私なりに解釈は出来ているのですが、それはまた後日に。
ちなみに
勢至菩薩とは、梵語ではマハーストハーマ・プラープタといい「大勢至菩薩」「得大
勢」ともいい、智恵の光明が強くて一切を照らし、人々を救うとされます。阿弥陀如
来の智慧を表現する、脇侍の菩薩である。http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/seishi.htm
お坊さんだけに、そこに何かの意味を込めているのでしょうか?
お参りに行ったお宅に、お仏壇がある部屋に介護用ベッドがあり、おばあちゃんはそのベッドに座っておいででした。
おばあちゃんの息子さん(主人)とその奥さん3人でおつとめをする。
読経がおわって、お茶をいただいていた。主人が
「あなたお寺の読経は他のお寺さんと違ってますね」
といわれ、ドキッとしたが、話しを聞くと「響きが素晴らしい」という内容だったのでホッとした。しばらくお経の話しになる。
おばあちゃんの座っているベッドには本棚がおいてあり、仏教関連の本がたくさん置いてある。
「熱心に聞法されているのですね」
「そんな事ないですよ。今は半身不随で隣の教務所にお参りにも行けません」
「そうですか、(半身不随とは)大変ですね」
「洗濯から食事まで全部お世話してもらってます」
と申し訳なさそうに言う「洗濯物を畳む事も出来ないのです、感謝してます」
チラッと奥さんの方を見ると、黙って下を向いている。
「私も入院した事があるのですが、最初の頃は体もひどくて、それを診てくれたり、看護してくれるお医者さんや看護婦さんに感謝しているのですが、元気になってくるとだんだんと我がままな自分が出てくるのです。」
「おまけに、「医療ミスが無いか?」なんて疑心暗鬼になったりして点滴の袋をチェックしたりね」「ホント、のど元過ぎれば、」ですわ。
しばらく「おまかせ」と言いながらお任せできない人間の本性の話しで盛り上がった。お嫁さんもニコニコと笑っている。こんな話しが出来るのも、おばあちゃんや、おそらく、夫婦の方も仏法を聞いているからだと感じた。
お釈迦様は「私には握りこぶしがない」という表現を使う。
全て、洗いざらい、何も隠さず話しているという事で、それはある一人の高弟だけを特別扱いして、仏法の秘伝を教える事は無い。という意味である。
「特別な巻物を君だけに伝える」という事が無いという事で、真理は全ての人に通じるという仏教の理念を表現している。
翻ってみると、私たちはみんな何らかの握りこぶしをいつも持っている。
イザとなったら使う隠し球である。疑心暗鬼の握りこぶし。最終兵器。保険。
しかし、その握りこぶしが却って自分自身を縛っている。「手のひらを開いてみなさい」とお釈迦様は言う。そうしたら自由にものを掴める、握手が出来ると。
おばあちゃんの息子さん(主人)とその奥さん3人でおつとめをする。
読経がおわって、お茶をいただいていた。主人が
「あなたお寺の読経は他のお寺さんと違ってますね」
といわれ、ドキッとしたが、話しを聞くと「響きが素晴らしい」という内容だったのでホッとした。しばらくお経の話しになる。
おばあちゃんの座っているベッドには本棚がおいてあり、仏教関連の本がたくさん置いてある。
「熱心に聞法されているのですね」
「そんな事ないですよ。今は半身不随で隣の教務所にお参りにも行けません」
「そうですか、(半身不随とは)大変ですね」
「洗濯から食事まで全部お世話してもらってます」
と申し訳なさそうに言う「洗濯物を畳む事も出来ないのです、感謝してます」
チラッと奥さんの方を見ると、黙って下を向いている。
「私も入院した事があるのですが、最初の頃は体もひどくて、それを診てくれたり、看護してくれるお医者さんや看護婦さんに感謝しているのですが、元気になってくるとだんだんと我がままな自分が出てくるのです。」
「おまけに、「医療ミスが無いか?」なんて疑心暗鬼になったりして点滴の袋をチェックしたりね」「ホント、のど元過ぎれば、」ですわ。
しばらく「おまかせ」と言いながらお任せできない人間の本性の話しで盛り上がった。お嫁さんもニコニコと笑っている。こんな話しが出来るのも、おばあちゃんや、おそらく、夫婦の方も仏法を聞いているからだと感じた。
お釈迦様は「私には握りこぶしがない」という表現を使う。
全て、洗いざらい、何も隠さず話しているという事で、それはある一人の高弟だけを特別扱いして、仏法の秘伝を教える事は無い。という意味である。
「特別な巻物を君だけに伝える」という事が無いという事で、真理は全ての人に通じるという仏教の理念を表現している。
翻ってみると、私たちはみんな何らかの握りこぶしをいつも持っている。
イザとなったら使う隠し球である。疑心暗鬼の握りこぶし。最終兵器。保険。
しかし、その握りこぶしが却って自分自身を縛っている。「手のひらを開いてみなさい」とお釈迦様は言う。そうしたら自由にものを掴める、握手が出来ると。
伝わるの?後できっと。
2005年1月11日 お仕事今日は風邪も快方に向かい、心身ともに快適でした。
この時期はお参りも少なく、お寺にゆっくりと事務の仕事をしています。
坊さんってお経をあげているだけではないのです。
今日のお参りは、若くしてなくなった息子さんの命日のおつとめでした。
「御文をいろいろ聞いてみたい」というお参りの方のリクエストがきっかけで、(お手紙形式のお説教でお経の後に必ず読む「御文の意味を知りたい」ということになり、御文の解説のレジュメを作ってこれで三回目である。
作って持っていき読むのはいいのだが、半のは今イチである。「難しい」という意見が多いので、今回は現代語訳を作って配ったのだが、今日の反応も今イチでした。
今度はレジュメ+わかりやすい解説をしたいと思っている。
今日は亡くなっただんなのお嫁さんが始めてにっこり挨拶してくれたのでホッとしたが。お経が終わってしまうと、いつものようにすぐに部屋を出て行ってしまった。
レジュメに目を通したが(熱心にみているのは雰囲気でわかる)何の意見も帰ってこない。
結婚三ヶ月で夫を亡くしたのだから、無理もない。
仏教の言葉の片端でもいいから、心のどこかに残ってほしいと思う。
そのためのきっかけを作るのが私の役目だと思う。
すぐに何かが変わるというのではなく、いつかそれが芽を出し成長して、花を咲かすはずである。
この時期はお参りも少なく、お寺にゆっくりと事務の仕事をしています。
坊さんってお経をあげているだけではないのです。
今日のお参りは、若くしてなくなった息子さんの命日のおつとめでした。
「御文をいろいろ聞いてみたい」というお参りの方のリクエストがきっかけで、(お手紙形式のお説教でお経の後に必ず読む「御文の意味を知りたい」ということになり、御文の解説のレジュメを作ってこれで三回目である。
作って持っていき読むのはいいのだが、半のは今イチである。「難しい」という意見が多いので、今回は現代語訳を作って配ったのだが、今日の反応も今イチでした。
今度はレジュメ+わかりやすい解説をしたいと思っている。
今日は亡くなっただんなのお嫁さんが始めてにっこり挨拶してくれたのでホッとしたが。お経が終わってしまうと、いつものようにすぐに部屋を出て行ってしまった。
レジュメに目を通したが(熱心にみているのは雰囲気でわかる)何の意見も帰ってこない。
結婚三ヶ月で夫を亡くしたのだから、無理もない。
仏教の言葉の片端でもいいから、心のどこかに残ってほしいと思う。
そのためのきっかけを作るのが私の役目だと思う。
すぐに何かが変わるというのではなく、いつかそれが芽を出し成長して、花を咲かすはずである。
今日は7日、毎月法話会がある日である。お経をみんなで唱和して、お説教を聞き、そのあと座談会をする。
実質今年初めての法話会であり、ご門徒さんとゆっくりお話しする機会であった。
仏法を長年聞いておいでになった方々とお話すると心和らぐ。そして励ましを受ける。坊主としての生き方の方向性を言外に含んでお話ししてくださる、その柔らかな姿勢に感銘を受ける。
本当の説教は、説教臭くないものである。口から伝わる説教ではなく、その人の体からにじみ出てくる光である。私のような頑固ものの心にも染み通る力が、仏法を聞いている方々にはある。
実質今年初めての法話会であり、ご門徒さんとゆっくりお話しする機会であった。
仏法を長年聞いておいでになった方々とお話すると心和らぐ。そして励ましを受ける。坊主としての生き方の方向性を言外に含んでお話ししてくださる、その柔らかな姿勢に感銘を受ける。
本当の説教は、説教臭くないものである。口から伝わる説教ではなく、その人の体からにじみ出てくる光である。私のような頑固ものの心にも染み通る力が、仏法を聞いている方々にはある。
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先日お参りにいったら、いくら呼び鈴を鳴らしても、玄関で大声を上げても出てこない。おばあちゃん一人暮らしなので心配になって部屋に上がってみた。
こたつで寝ていた。
念のため近くまで行って確認してみたら、いびきをかいて寝ていたので安心した。
そのまま、書き置きをして帰りました。あまりにも気持ち良さそうだったので。
こんなの初めて。
お寺で飼っていた柴犬ちゃんーが先日、亡くなりました。住職から朝の勤行前に内線電話がかかり、それが分った。
13歳でした。人間でいうと80歳くらいの寿命になるそうです。
私は幼い頃やはりーきたろうーという名のセントバーナードを飼っていて、その犬に噛まれた事があったのを思い出しました。
実際は甘かみだったらしけれど、大泣きしたのを覚えている。
一昨年は、10年ほど前にお寺に迷い込んだ野良犬が亡くなって、母親が悲しんでいたのを思い出した。
兄弟の雄犬ちゃんは寂しそうにしているらしい。
たまに喧嘩していたけれど、喧嘩相手がいなくなって寂しいのでしょう。
最近ラジオで話題の愛犬を歌った曲「ジョンの純な恋物語」を思い出しました。試聴も出来ます。http://living-with-dogs.com/jp/living/cd1-j.html
お寺は大掃除と本堂の荘厳も終わり、後は大晦日の除夜の鐘を迎えるばかりとなりました。毎年恒例の年越し蕎の振る舞いもあります。参道と本堂前を美しく飾ってお迎えしております。是非お参り下さい。
こたつで寝ていた。
念のため近くまで行って確認してみたら、いびきをかいて寝ていたので安心した。
そのまま、書き置きをして帰りました。あまりにも気持ち良さそうだったので。
こんなの初めて。
お寺で飼っていた柴犬ちゃんーが先日、亡くなりました。住職から朝の勤行前に内線電話がかかり、それが分った。
13歳でした。人間でいうと80歳くらいの寿命になるそうです。
私は幼い頃やはりーきたろうーという名のセントバーナードを飼っていて、その犬に噛まれた事があったのを思い出しました。
実際は甘かみだったらしけれど、大泣きしたのを覚えている。
一昨年は、10年ほど前にお寺に迷い込んだ野良犬が亡くなって、母親が悲しんでいたのを思い出した。
兄弟の雄犬ちゃんは寂しそうにしているらしい。
たまに喧嘩していたけれど、喧嘩相手がいなくなって寂しいのでしょう。
最近ラジオで話題の愛犬を歌った曲「ジョンの純な恋物語」を思い出しました。試聴も出来ます。http://living-with-dogs.com/jp/living/cd1-j.html
お寺は大掃除と本堂の荘厳も終わり、後は大晦日の除夜の鐘を迎えるばかりとなりました。毎年恒例の年越し蕎の振る舞いもあります。参道と本堂前を美しく飾ってお迎えしております。是非お参り下さい。
生き仏様 ー背後のつぶやきー
2004年12月22日 お仕事今日は、山の町へお参りに行きました。
町の中を世話方につれられて、6軒次々とお参りするのです。
4軒目のお宅でお内仏に向かってお経をあげようとしていると
おばあちゃんがつぶやくように言うには
「生き仏さんに来てもらってお参りするからね」
???俺の事か???
読経中「生きた心地がしませんでした」
山のおじいちゃん、おばあちゃんは信仰が深いという印象がありますが。
それはその通りなのです。
しかし、「生き仏」的発言をする信仰は初めて生で聞いたのです。
お勤めの後におばちゃんが
「やや!やっぱりこの人は生き仏じゃない〜 ひっ捕らえよ〜」
と自分の正体を暴かれるんじゃないかと、普段よりお経に力が入っちゃいました。
昔話として語られた逸話に、本山の門主がある土地を訪れて、ある家に滞在した。
そのお宅でお風呂をよばれたのだが、門主が入浴したお風呂の水を「ありがたい」
「功徳がある」といって飲んだ!という話を思い出しながらお経を続けていました。
誤解で崇拝されるということは、そのぶり返しが怖いという事でもあります。
普通にお勤めは終わり(当たり前ですが)次のお宅にお参りに行くと、そのおばあちゃんがついて来ておいでで(町によっては両隣のお宅のお参りも一緒にする習慣がある)そのお宅でも読経を始めようとしたら「生き仏さんに来てもらってお参りするからね」とやはり同じ言葉を。
ヒヒ〜ン!\(@o@)/
私にいわれているという事を確信して、思わず「プッ」と吹き出してしまったら。
そのおばあちゃんも「ふふっ」と吹き出したではありませんか。
安心しました。
おばあちゃんは、坊さんとしては若い私をちょっぴりビックリさせようとして、言われたようです。しかし、そのあと「ありがと〜 なんまんだ〜」と吹き出した自分を打ち消そうとするように独白されました。
「ありがとう」
これは浄土真宗特有の祈りの言葉です。仏様に頼み事をする祈り(または頼み事がかなった時の)ではなく、現在ここにある自分の命の尊さに気づき、今に自足している者の感謝の祈りが「南無阿弥陀仏」の教えなのです。
こうなってくると「生き仏さんに来てもらってお参りするからね」という言葉も単に私をからかったのとは違う意味がこもっています。
わたしに対して「あなたは生きた仏教に出会ってますか?」と問っている言葉だったのかも知れません。
坊主である私は、いつもおまいりの方々に背を向けてお勤めをしていますが、背後から聞こえてくる、おばあちゃんのお念仏の声や、つぶやきに育てられているのですね。
町の中を世話方につれられて、6軒次々とお参りするのです。
4軒目のお宅でお内仏に向かってお経をあげようとしていると
おばあちゃんがつぶやくように言うには
「生き仏さんに来てもらってお参りするからね」
???俺の事か???
読経中「生きた心地がしませんでした」
山のおじいちゃん、おばあちゃんは信仰が深いという印象がありますが。
それはその通りなのです。
しかし、「生き仏」的発言をする信仰は初めて生で聞いたのです。
お勤めの後におばちゃんが
「やや!やっぱりこの人は生き仏じゃない〜 ひっ捕らえよ〜」
と自分の正体を暴かれるんじゃないかと、普段よりお経に力が入っちゃいました。
昔話として語られた逸話に、本山の門主がある土地を訪れて、ある家に滞在した。
そのお宅でお風呂をよばれたのだが、門主が入浴したお風呂の水を「ありがたい」
「功徳がある」といって飲んだ!という話を思い出しながらお経を続けていました。
誤解で崇拝されるということは、そのぶり返しが怖いという事でもあります。
普通にお勤めは終わり(当たり前ですが)次のお宅にお参りに行くと、そのおばあちゃんがついて来ておいでで(町によっては両隣のお宅のお参りも一緒にする習慣がある)そのお宅でも読経を始めようとしたら「生き仏さんに来てもらってお参りするからね」とやはり同じ言葉を。
ヒヒ〜ン!\(@o@)/
私にいわれているという事を確信して、思わず「プッ」と吹き出してしまったら。
そのおばあちゃんも「ふふっ」と吹き出したではありませんか。
安心しました。
おばあちゃんは、坊さんとしては若い私をちょっぴりビックリさせようとして、言われたようです。しかし、そのあと「ありがと〜 なんまんだ〜」と吹き出した自分を打ち消そうとするように独白されました。
「ありがとう」
これは浄土真宗特有の祈りの言葉です。仏様に頼み事をする祈り(または頼み事がかなった時の)ではなく、現在ここにある自分の命の尊さに気づき、今に自足している者の感謝の祈りが「南無阿弥陀仏」の教えなのです。
こうなってくると「生き仏さんに来てもらってお参りするからね」という言葉も単に私をからかったのとは違う意味がこもっています。
わたしに対して「あなたは生きた仏教に出会ってますか?」と問っている言葉だったのかも知れません。
坊主である私は、いつもおまいりの方々に背を向けてお勤めをしていますが、背後から聞こえてくる、おばあちゃんのお念仏の声や、つぶやきに育てられているのですね。
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今、受験勉強を終えた後のようななつかしい感じである。
二日前に急に指名された、法話会が終わった爽快感と、敗北感。
結局、「ご消息」の本番では何度も間違えてしまい、読み終えた後、世話方の目が険しく光っていた。無念である。前半は上手くいったが、後半はまるでロールハッシャテストを受けているみたいでしどろもどろになってしまった。
せっかく去年上手に読めたからと、指名してくれたのに、推薦してくれた世話方も裏切られた気分ではないだろうか。残念である。
そこで強く思った事は、この伝統ある「ご消息」を今日まで相続して、その日にお講を開きそれを拝読するという事は。私が思っている以上に重大なことなのだ。
お寺さんによっては、ご消息をあたまから読まず。現代文の御文で済ませるところもあるらしい。、儀式の一環として読むのだから、どれを読んでも同じであるという気持ちがそこにはある。むしろ、その後の法話の方が大事だと思っている節もあると思う。
しかしそれは、その町の伝統をないがしろにすることになり、ひいては仏教の教えも衰退させる事になる。
自分自身坊主で、儀式に従事するものであるが。儀式の伝統の大切さを改めて考えさせられた日であった。
法話の方は、自分の採点では及第点でした。この日記に日々のお参りの事などを書いているのが、とてもいい効果を与えてくれている事がわかった。
その日の事を書いていると、しっかり記憶に吸収されるので、人に話すときもスムーズにお話が出来るようだ。
この日記に感謝!
二日前に急に指名された、法話会が終わった爽快感と、敗北感。
結局、「ご消息」の本番では何度も間違えてしまい、読み終えた後、世話方の目が険しく光っていた。無念である。前半は上手くいったが、後半はまるでロールハッシャテストを受けているみたいでしどろもどろになってしまった。
せっかく去年上手に読めたからと、指名してくれたのに、推薦してくれた世話方も裏切られた気分ではないだろうか。残念である。
そこで強く思った事は、この伝統ある「ご消息」を今日まで相続して、その日にお講を開きそれを拝読するという事は。私が思っている以上に重大なことなのだ。
お寺さんによっては、ご消息をあたまから読まず。現代文の御文で済ませるところもあるらしい。、儀式の一環として読むのだから、どれを読んでも同じであるという気持ちがそこにはある。むしろ、その後の法話の方が大事だと思っている節もあると思う。
しかしそれは、その町の伝統をないがしろにすることになり、ひいては仏教の教えも衰退させる事になる。
自分自身坊主で、儀式に従事するものであるが。儀式の伝統の大切さを改めて考えさせられた日であった。
法話の方は、自分の採点では及第点でした。この日記に日々のお参りの事などを書いているのが、とてもいい効果を与えてくれている事がわかった。
その日の事を書いていると、しっかり記憶に吸収されるので、人に話すときもスムーズにお話が出来るようだ。
この日記に感謝!
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先日と、先々日は東京から友人が来て、楽しく飲んだのでした。昨年石川から東京に引っ越して、エステを開業している。体は小さいが大変パワフルな女性である。
お仕事も大変上手くいっているようだ。
今度東京に行ったら、エステやってもらおっと。
と、楽しい日を過ごしたが、お寺によってみると、他の人が担当のはずだった、法話会が私になっているではないか!?
昨年に私が行った町の法話会で、たまたまその日は法話が上手くいったみたいで、評判がよく、ご指名がかかったのだ。
うれしいけど、やだ。何故かというと、私は法話が苦手なのだ。でも、変に受けを狙わず、自分の普段教えられている事を話すつもりです。
問題はもう一つあって、その町には「御消息」といわれる、御文があるので、それを読むのだが、文政6年に書かれた手紙なので、ミミズが這ったような文字なのだ。
これを読むのが一苦労である。
現在も練習している。
大丈夫だろうか?がんばるぞ〜
お仕事も大変上手くいっているようだ。
今度東京に行ったら、エステやってもらおっと。
と、楽しい日を過ごしたが、お寺によってみると、他の人が担当のはずだった、法話会が私になっているではないか!?
昨年に私が行った町の法話会で、たまたまその日は法話が上手くいったみたいで、評判がよく、ご指名がかかったのだ。
うれしいけど、やだ。何故かというと、私は法話が苦手なのだ。でも、変に受けを狙わず、自分の普段教えられている事を話すつもりです。
問題はもう一つあって、その町には「御消息」といわれる、御文があるので、それを読むのだが、文政6年に書かれた手紙なので、ミミズが這ったような文字なのだ。
これを読むのが一苦労である。
現在も練習している。
大丈夫だろうか?がんばるぞ〜
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今日は、大変疲れたな〜 お仕事が忙しかった事もあるけれど。
昨晩パーティーがあり。夜遅くまで過ごしてしまったからだ。
でも、大変楽しい会だったので悔いはない。
個性的な人と出会いは人生に活気を与えてくれる。
坊主なのでそれ関連のつながりが多いが、昨晩は様々な職業の人とであった。
7カ国語を操るカナダ人とはなせたのも良かった。私は英語もわからないし、彼も日本語はあまり出来ないが、ジェスチャーなどを交えて話すと結構伝わるものだ。
その人に会う前に、昨日の最後のお参りでは法話をしたのである。他のところで何度も話しているお話なので、普通に話したのだが今ひとつ聞いている人の反応が悪くて、少し落ち込んでいた。
同じ話をしても、日によって調子の悪いときがあるのはよくある事なのだが、昨日はそんなに調子が悪い日でもなかったので、原因が分からず。少し落ち込んでのパーティー出席であった。
昨日カナダ人と話している時、なぜこの人は何カ国もの言葉を操れるのか?と聞いてみたが、質問がうまく出来ず、結局聞けずじまいだったが、その人と話しているうちに感じたのは、人に自分の意思を伝えるその意気込みがすごいという事だ。その人はただ単に言語能力が優れているのではなく、コミュニケーションをするという事に対して一生懸命なのだ。
自分は何を表現したいのか、相手にそれを伝えるためにはどうしたらいいのか?
頭の隅にその事が引っかかったまま、今日も法話をする機会があった。いつも話している話を今日もした。「自分は何を表現したいのか、相手にそれを伝えるためにはどうしたらいいのか?」と自問しながら、出来上がったシナリオ通りでなく、聞いている方の反応に注意を傾けながら一生懸命話したら。下を向いていた方もこちらを向いて話に耳を傾けてくれるのが感じられた。
昨晩のイマイチと自分でも感じた法話の後には「こんな話初めて聞いた」と感心したように言われた。それは話のいわゆる「ネタ」をほめて下さったのだ。
今日は「いいはなしをありがとう」とほめて下さった。そちらの方が嬉しかったし、これが本当の法話なんだと思った。
内容を工夫するのも大切だが、意気込みもとっても大切なのだ。
昨晩のパーディーで、普段会わないような人たちとお話をする機会を得たおかげで、当たり前の事であるが基本的で大切な事を再確認する貴重な時間を貰った。
昨晩パーティーがあり。夜遅くまで過ごしてしまったからだ。
でも、大変楽しい会だったので悔いはない。
個性的な人と出会いは人生に活気を与えてくれる。
坊主なのでそれ関連のつながりが多いが、昨晩は様々な職業の人とであった。
7カ国語を操るカナダ人とはなせたのも良かった。私は英語もわからないし、彼も日本語はあまり出来ないが、ジェスチャーなどを交えて話すと結構伝わるものだ。
その人に会う前に、昨日の最後のお参りでは法話をしたのである。他のところで何度も話しているお話なので、普通に話したのだが今ひとつ聞いている人の反応が悪くて、少し落ち込んでいた。
同じ話をしても、日によって調子の悪いときがあるのはよくある事なのだが、昨日はそんなに調子が悪い日でもなかったので、原因が分からず。少し落ち込んでのパーティー出席であった。
昨日カナダ人と話している時、なぜこの人は何カ国もの言葉を操れるのか?と聞いてみたが、質問がうまく出来ず、結局聞けずじまいだったが、その人と話しているうちに感じたのは、人に自分の意思を伝えるその意気込みがすごいという事だ。その人はただ単に言語能力が優れているのではなく、コミュニケーションをするという事に対して一生懸命なのだ。
自分は何を表現したいのか、相手にそれを伝えるためにはどうしたらいいのか?
頭の隅にその事が引っかかったまま、今日も法話をする機会があった。いつも話している話を今日もした。「自分は何を表現したいのか、相手にそれを伝えるためにはどうしたらいいのか?」と自問しながら、出来上がったシナリオ通りでなく、聞いている方の反応に注意を傾けながら一生懸命話したら。下を向いていた方もこちらを向いて話に耳を傾けてくれるのが感じられた。
昨晩のイマイチと自分でも感じた法話の後には「こんな話初めて聞いた」と感心したように言われた。それは話のいわゆる「ネタ」をほめて下さったのだ。
今日は「いいはなしをありがとう」とほめて下さった。そちらの方が嬉しかったし、これが本当の法話なんだと思った。
内容を工夫するのも大切だが、意気込みもとっても大切なのだ。
昨晩のパーディーで、普段会わないような人たちとお話をする機会を得たおかげで、当たり前の事であるが基本的で大切な事を再確認する貴重な時間を貰った。
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