病に抵抗する力を失い、身を横たえていると、そのうちそれが心地よくなる。
長くつきあっていると、、病に身をゆだねる心地よさを知る。
しかし、それは傲慢な思い違いで、それをあざ笑うかのように、病は降参した私を「降参なんて嘘だろう」と迎え入れてくれずに、また違った苦しみを与える。

病は女心のように全てをゆだねようとする私から身をかわす。
それを繰り返しているうちに、阿吽の呼吸で降伏と戦いの繰り返しに少々慣れてきて、シーツから布団、布団から着慣れたシャツのように、その苦しみが日常になってゆく。

脱いだり着たり、着たり脱いだり。

病から回復して行く時、そんな病と決別するのがなんだか寂しくて、もう着れなくなった服を捨てる時の気持ちに似ている。透明になった精神がけがされるような気持ちが疎ましい。

健康と言う名の病に侵されてゆくような気持ちもしたりして、さみしい。

その立場になってみないと、本当の気持ちはわからないよ、というけれども。本音は理解してもらいたいのではなく、理解する努力を望んでいるのだろう。

慈悲というのは、分かり合う事ではなく、分かり合いたいのに分かり合いたくもないという、相反した人間の悲しみを共有する事なのだ。

悲しみの共有が慈悲である。それは誰のものでもないから。
お情けはいらないぜ(^^)

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